2002年1月2日―9日 科研費出張
2002年1月2日
1. 日本の自宅を6時に出発。10時50分発のLufthansa 710便でフランクフルトへ。
2. フランクフルトで乗り換え。現地時間16時55分ベルリン・テーゲル空港着(日本時間は時差8時間すすんでいるので、午後11時頃、夜半なので眠いし疲れが出る)
3. ベルリン・テーゲルTegel空港のBerliner Bank・・・手持ちのマルクをユーロに換えようと並んだが、かなり長い列ができており、近くまで来てよく掲示を見ると、「外貨のみ交換、DMドイツ・マルクとオイロとの交換は、顧客に限る」、と。
外貨交換なら手数料をとれるが、マルクからユーロ(ドイツの発音ではオイロ)への変換は手数料を取れないので、顧客以外に対しては、拒否しているわけ。
それで空港内両替銀行でのマルクからユーロへの交換を断念。
4.
バス乗り場へ(X9=中心部Zoo駅までの快速運行バス便)。
ユーロの現金をまだ持っていないので、車掌にドイツマルクで支払えるか、と聞くと、
「できる、但し10マルク札のみ」と。
ちょうど10マルク札を持っていたので出すと、2ユーロ・10ツェントの料金、大体1ユーロ=2マルク(正確には1.95678くらい)、つまり、マルクでは、4マルク20プフェーニヒ。
10マルクを支払うと、だいたい5マルク80のお釣だが、お釣として3ユーロ(6マルク)が返って来た。こまかな端数は切り捨てというところである。
5.
バスでの経験から、ただちにユーロ現金が必要だと思い、CITIバンク(ホテルに向かう途中、地下鉄U9を下車して最寄りのSchloßstr.支店)に行った。
ここでも、ユーロとマルクの現金の交換の窓口は長い列ができており、そこにいくと行員がもう本日の交換は終わりました、と打ち止めを宣告していた。
6. 仕方ないので、CITIカードの自動引き降ろしでユーロ現金を手に入れた。最初だったからか、10ユーロ(約1200円くらいか)札ばかりが出てきた。
7. マルクは2月28日まで通用することになっているが、両方で払うとかなり混乱する様子がテレビ部で放映されていた。
8. テレビ報道者がいろいろの店で実際に買い物をして使い勝手を試していた。あまり面倒なので店の側が、適当に(テレヴィを見る限りは)損をする感じで、処理していた。
9. 店によっては、「ユーロしか受け取りません」と張り紙を出しているところもある。法的には違法ではないかと思われるが、それがテレヴィで映し出されていた。
10. 20マルク札を出されたドルトムントの店員は両替はできませんと応えていた。マルクは、仮に受け取るにしても、お釣のないようにして使ってくれということだろう。
11. イタリアでは、「旅行者がユーロを払うと、お釣がリラで返ってきた」と旅行者の不満そうな顔。ユーロ転換など気にしないで、まったくリラがそのままで使われているバール、商店などの風景をテレヴィが映していた。 ドイツのような全国民一斉ともいえるユーロへの転換衝動は、イタリアでは起きていないということである。
12. フランスでは銀行員がストライキを起こしている、とも伝えている。
最寄のホテルは、S1の駅リヒターフェルデ・ヴェストの西口50メートルほどにあり、交通の便がよい。
ホテル・ムリノMulino。
(今回撮影したデジカメ写真を参考までに示そう。
外観/3階左の木陰に見える部屋がNr.8でいつも泊まる部屋、その部屋の中のベッド、テレビと洋服ダンス、洗面所、部屋の中から前方、リヒターフェルデ・ヴェスト駅への道(広告塔を曲がってすぐ、ホテルと駅の距離は50メートルほどか)。
早朝のリヒターフェルデ・ヴェスト駅の西口と東口、西口から東口まで行き、東口前のバーゼル通りBaseler Str.からカデッテン通りKadettenstr.を通って、フィンケルシュタイン通りの連邦文書館まで15分ほど、厳冬でマイナス10度以下にも、朝9時半頃の駅のホームで見かけた温度計=℃マイナス9度)
何回も利用しているので、その経験からベルリンの連邦文書館に行く人には勧めたい。
興味ある人のために、アドレス、電話・ファクスを書いておこう。
Hotel Mulino
Adolf Martensstr. 2
12205 Berlin
tel 49 30 8328856
fax 49 30 8324412
ファクスで予約を頼めば、すぐに返事をくれる。
わたしはE-mail愛好者なので、マスターにE-mailは導入しないのかといったら、いま機械は導入したが、運用に至っていないという返事だった。小さなホテルでマスター一人で何もかもやっているので、ちょっとE-mailシステムにまで手が回らないということのようである。
ただし、2,004年12月の利用の時には、E-mailがあるといい、むしろファクスよりe-mailが簡単便利といっていた。
S1は南西の終点がヴァンゼー駅で、ここは「ヴァンゼー会議」(議題:ユダヤ人問題の最終解決、1942年1月20日開催)の記念館のある場所でもある。
今回も訪問した。
S1の北東の終点は、オラーニエンブルク、すなわちベルリン郊外の強制収容所があったところで有名なところである。
1月3日
連邦文書館で仕事開始。利用者番号BesucherNr.は16943。
8月の時の利用者カードがなくなっていたので新たに申請した。番号は、登録されているようで、8月の時と同じだった。
アイヒマン裁判は戦後裁判なので、コブレンツにまだ置いてあるとのこと。アイヒマン裁判の文書類はベルリンでは見る事ができないことが判明した。
ライヒ保安本部関係文書と取り組む。ポーゼンの移住者センター文書も。
正午過ぎ、夏休みの文書館利用中に何回か一緒になった千葉大学の石田憲さんと会う。冬休みでまた12月13日にロンドンからこちらに来て仕事しているとのこと。ロンドン大学で発表する予定の報告準備とか。
昼食持参とのことだが、一緒に食事をすることにする。寒い文書館敷地内を二人で、「カジノ」まで急ぐ。
昼食は職員・訪問者用のこの「カジノ」と称する食堂でとった。
価格表示はすべてユーロ。
張り紙があって、「マルクは20マルク札だけ受け取る」とのこと。
4ユーロ少しの価格で、20マルク(10ユーロ)出したら5ユーロ少しのお釣が返ってきた。食堂のおばさんが細かな計算を卓上計算機でやっていた。お釣の細かなことは何も分からないのでそのまま受け取った。大きな所では計算間違いはないようだから。
2月末までドイツマルクは使用できるというが、少なくともここドイツでは、ユーロでないと実に不便になっている。当然か?
アルヒーフからホテルに帰る途中、スーパーマーケット「カイザー」に立ち寄った。ほかのところと違って、価格表にはまだユーロとマルクが併記されていた。多分マルクが使えることの意思表示なのだろうと幾つか品物を買って、レジで「マルクは使えるか」ときいたら、「ええJa.」と。
レジの機械はユーロを表示した。マルクを支払うと、お釣Rückgeldは、ユーロであった。きちんとそのような自動計算が可能なプログラムになっていた。レシートにもそのとおりのことが明記されていた。さすが、細かなたくさんの商品を扱うスーパーのチェーン店だけのことはある。
テレビではフランスの国粋主義者、ドゴールの肖像を執務机のうしろの壁に掲げるある都市の市長が、ユーロによる主権喪失に抗議し、ユーロ反対の発言をしているところも写していた。彼は、「いずれ、ユーロは崩壊する」と主張。
1月5日土曜日、連邦文書館は閉館。利用できないので、市中心部の見学、買い物などに出掛ける。
朝十時、駅の温度計はマイナス9度。
切符の自動販売機:リヒターフェルデ・ヴェスト駅には古いマルク用の機械と新しいユーロ用の機械があった。他の駅でははやくもユーロ用機械しかなかった。
マルク用には、2月28日まで、と利用可能期限が張り紙で示されていた。お釣はマルクで。
日本から持参した残りのコインを使う事ができた。
1月6日
Verbrechen der Wehrmacht. Dimensionen des Vernichtungskrieges 1941-1944.
「国防軍の犯罪 絶滅戦争1941−1944の諸次元」展を千葉大の国際関係史・国際政治史研究者・石田憲さんと見に行った。
石田さんにわたしの写真を取ってもらった。背景は「戦争と法(Krieg und Recht)」の説明掲示。
朝10時前に会場についたら、すでに5メートルくらい人が並んでいた。温度は零度くらいだったが雨模様。日曜日。それにもかかわらず、しだいに列は長くなっていた。
展示物は、今回は文書・ドキュメント類がほとんどである。にもかかわらず、訪問者はそれらを熱心に読んでいた。
たいしたものだ。
2001年9月11日の世界貿易センター破壊とその後のアフガニスタン攻撃が高い関心の背後にあったであろう。
歴史資料展示会は2001年11月28日からのもので、2002年1月13日までである。実にいい時に見に行くことができた。めぐり合わせに感謝。
この展示会は、ヴァンゼー記念館とハンブルク社会研究所の共催だった。
カタログは1月末に、ハンブルク社会研究所から出版される。約八〇〇ページとかで、発注した。
1941年―1944年の対ソ戦争は「普通の意味での戦争ではない」。「絶滅戦争だ。」
ソ連の民衆の食糧不足・大量飢餓・餓死(食料戦)は、戦争直前に予定に入れられていたことだが、実際に、ソ連の激しい抵抗で総力戦の泥沼に入りこむことで現実のものとなった。
レニングラード包囲は1000日のながきに渡ることになる。レニングラード市民の餓死は大量に上った。まさに41年10月以降、レニングラード市民に対する飢餓戦略が始まった。
中部ハリコフを巡る闘い。
長大な戦線、450万人のソ連軍の反撃、それに呼応するドイツ軍背後のパルチザン・・・パルチザン戦争。
ユダヤ人大衆は後方地域ではパルチザンとみなされて、射殺されることになる。“Der Jude ist Partisan”.レニングラードへの補給路で敵対する双方にとって死活の重要性を持つ白ロシア、その首都ミンスク。
ユダヤ人は迫害、殲滅の対象だが、占領下のスラヴ人はドイツの戦時経済のための労働力として徴募。強制連行。「東方労働者」の呼称。
展示会はかつてのベルリンのユダヤ人街で開催されていた。訪問は2002年1月6日(日曜日)午前10時過ぎから1時頃まで。
その後、シナゴーグそばのユダヤ系レストランで石田さんと食事。石田さんはレストランガイドなどをみながら、おいしい店を探すのを得意としており、夏休みのときにはエスニック料理の店(インドネシア料理、タイ料理など)につれていってもらった。
ユダヤ人街区の中心は、ユダヤ教の教会シナゴーグである。ここは統一前まで東ベルリン地区だった。近くにはフンボルト大学(ベルリン大学、これも統一前は東ドイツの大学)の客員教授用の寮がある。ケルブレ教授の紹介で数年前に二週間ほど宿泊した。
このシナゴーグは、東ドイツ崩壊後再建された。(後方に、旧東ドイツ時代、東ベルリンの象徴だったテレビ塔が見える)
現在のイスラエル・パレスチナ紛争の影響もあり、シナゴーグの前にはいつも装甲自動車、パトカーがあり、警察官が見張っている。
ヴァンゼー記念館にも、夕方5時近くになったが、行ってみた。
今年は「ヴァンゼー会議60周年だが、何か特別企画はあるか」と尋ねたら、上述の新しい「国防軍犯罪展」のポスターを示された。それはさきほど見てきたばかりだというと、1月後半から始まる別の展覧会を教えられた。2月にポツダムのシンポジウムに参加した際に時間があれば、みたい。
ヴァンゼー記念館では、リッツマンシュタットからのユダヤ人移送(ガス自動車による抹殺)に関わる写真展示と
1939年9月の独ソによる第4次ポーランド分割の地図・ポーランドユダヤ人のあごひげを切る写真を記念に撮影。
1995年から1998年にかけて行われ全ドイツ、オーストリアなどを巡回した写真展「絶滅戦争: 国防軍の犯罪1941―1944」には80万人の訪問者があった、という。
そのミュンヘンでの長い行列の様子(ミュンヘン市庁舎、マリーエンプラッツ)。